訃報
本学会評議員の中村順一さん(京都大学総合情報メディアセンター教授)が、平成13年12月23日に亡くなられました。享年45歳。
中村順一さんは、本学会の設立時の1994年4月より4年間、本学会理事(事業担当)を務められ、会則の作成やニュースレターの発行、学会ウェブページの作成等、本学会の活動を軌道に乗せるために多大な貢献をされました。同時に、1994年から5年間は会誌編集委員も務められ、理事退任後の1998年度からは評議員を務められていました。
ここに謹んで哀悼の意を表します。
中村順一君の早すぎる死を悼んで
辻井潤一(東京大学)
彼がいなくなった今も、中村君のホームページは、彼の最後の3年間の人生を語っている。写真の彼は、薬の副作用のゆえに少し浮腫んで見えるが、私が知りあった頃、 学生の頃の彼と変わらない。ほとんど毎日のように付けていた日記も、ある。
病状が悪化した後の2日間、11月21日・22日に、我々を心配させまいと書いた記述が、悲しい。その直前に見舞った友人によると、回復した後の研究のことを元気に話したという。その友人が「日記が中断して皆が心配している」と伝えたことで、 この、最後の2日分の日記が書かれた。彼らしいと思う。見舞ったときも、長い時間が一瞬に感じるように、話した。心配をかけまいという配慮とともに、やりたいことが山ほどあったのだろう、無念に思う。
日記を読むと、病状への不安の中で、いつもと変わらない中村君がいる。毎日のように、最新のPC、モバイル製品、電気製品を買ってきて、使いにくい、良くなったなどと批評をしている。私にはわからない技術的なことを、ぶつぶつとつぶやいている。彼とは、京都大学で機械翻訳プロジェクトの研究を一緒に行った。昨日のことのように思う。プロジェクトでやらねばならない仕事の期限が迫ると、私は小説を読むことに逃避し、彼は、すぐには必要のない新しい計算機やプログラムをインストールすることに逃避していた。新しい電子製品、プログラムで、彼が知らないことはなかった。変わっていない。
京都大学での機械翻訳プロジェクトは、4年間という短期間であった。しかし、私にとって、そして、多分彼にとっても、研究者として一番印象的な期間であった。研究者としての基盤が作られたときであった。常時6−7名ほどの企業からの研究者がグループとして参加しており、年齢が近いこともあって、彼はそのグループの中核にいた。プロジェクトの基幹言語であるGRADEは、彼が詳細設計し開発した。彼の博士論文の成果である。世界に誇れるものであった。プロジェクト中には、議論が沸騰して、夜の12時を過ぎることも、少なくなかった。高校時代、水泳部だったという彼は、バタフライが得意で、もっとも元気な人でもあった。
人がよくてお節介なところがある彼は、他人が受け持っている仕事にもよく口を出した。口だけでなく、結局は自分がその仕事をやってしまう、というふうであった。文句をいいながらも、人を助けるのが好きだった。得意げな彼を、思い出す。
言語処理学会が創立されたときも、そうであったという。私は英国にいて知らないが、理事として、会則を作るなどの仕事を引き受けて活躍したという。多分、雑用だと文句をいいながら、それでも楽しそうに、有能に、仕事をしたのだろうと思う。お節介だが悪気のない彼は、機械翻訳プロジェクトのメンバから、また、彼と知り合うことになった若い研究者・学生から、兄のような感じで慕われていた。
日記の中でも、友人との会話の中でも、次の研究テーマを熱心に語った彼は、もういない。言語処理と我々の学会に彼がした、そして、したであろう貢献は、大きくて切ない。
あまりに個人的な文章になった。彼の早すぎる死に、動転している。無念だとしか言いようがない。ご冥福をお祈りする。
言語処理学会第8回年次大会(NLP2002)プログラム